【ひなたのこども】第10回 子供時代を追体験する。

「子どもの頃の感情の記憶」
大人に「どうする?」と聞かれた時の私の感情を思い出しました。
うまく生きられなかったあの頃の感情の記憶です。

子供のころの感情の記憶

最近自分が子供のころの感情を、色鮮やかに思い出すことが多くなりました。

ぴよととんの子育て中であることはもちろん、演技のワークショップで小学生~中学生を間近で見る機会を得たこともあると思います。

つい最近蘇ったのは、「大人に質問されたとき」の感情。

これは、先日のワークショップで風邪気味で体調悪そうな女の子がいて、先生に「具合悪い?できそう?」と聞かれたんだけど何も答えず、先生もほかの子たちもちょっと困ってしまった、というシーンがありまして。

その場は、日頃から気配りができて女子力の高い中学生のお姉さんが優しくサポートし、「見学してる」という答えを本人から導き出してくれて収まったのですが。
(こういう資質のある女の子、今でも本当に憧れます。)

私はといえば、大人なのに、ただ見守ることしかしなかったわけですが。
あー、大人なのにね・・・。

そんな自己嫌悪な感情もありつつ、ワークショップが終わって帰路につきました。

いつものように演技レッスンで得た充実度満点、目から鱗の内容を脳内で反復していると・・・、なぜかあの体調悪かった女の子の立場に私は入り込んでいました。

大人から、「どうする?」と聞かれたとき。

子供のころの私は、何も答えられませんでした。

なぜかというと、自分が大丈夫かどうか、考えても本当に分からないから。
やればできそうな気はする、だけどいつもと違う体調であることは確かで、これが「大丈夫」に当てはまるのか、「やめたほうが良い」に当てはまるのか。
このままやったらどうなるのか。やらなかったらどうなるのか。
先生は、ほかの子たちは、母親はどう思うのか。
・・・・そんなことをぐるぐる考えて。

普通なら、適当な見切りをつけて答えるわけです。
「大丈夫」とか、「見学してる」とか、「帰る」とか。
大丈夫かどうかは、医者じゃないし、子供だし、分からないのは当然で。
どうしたいか踏ん切りをつけて、「適当に答える」ことができるわけです。大抵は。

でも、私は、自分で言葉を使って発信することは、本当に正しくなければいけない、責任の持てることでなければいけない、みたいに多分、思っていて。
責任の持てないことは言えないのです。
だから黙ってもじもじとしてしまう。

特に大人や集団に対して。
仲良しの友達との会話では、そんなことはありませんでした。
そこが幸いだったな。

そんなシーンを何回か体験しているのでしょうね。
「私の答え待ち」の、圧力に押しつぶされそうな、シーンと静まり返った空気を、その中でグルグルグルグルと考え続ける私を、なんだか鮮やかに思い出してしまったのです。

自分の中の問題なのだから、外から見て正しいかどうかなんてないはずなのですが、そこまでは分からなかった。
きちんと正しいことを答えなきゃ。
先生から、みんなから、親から、そうだね、正しいね、と思ってもらえる答えを言わなきゃ。
自分を適当に発信することはいけないことだと思っていた。

あ、今回のワークショップのあの女の子は、私とは違うと思いますけれどね。
たまたま具合悪くて答えられなかっただけ、かもしれない。

大人になって、やっと、良い意味での「適当」の大切さが分かるのです。
今でもまだまだ、適当に対するコンプレックスは持っているのだけれど。

一つ思い出した。

小学校5年生ぐらいのころ。
授業?HR?で、給食の白衣のたたみ方が議題になってて。
「普段どうやってたたんでいるか、前に出てきてやってみて」と先生が言い、私を含んだ数名が当てられて、みんなの前に出たのです。

もちろん、私は自分でいつもやっているたたみ方がありました。
でも、それが正しいたたみ方かどうか分からない!と思ってしまって。

ほかの子は適当にたたんでスムースにこなす中、私は白衣を持ったまま、どうしてもたたむことができなかった。
いつもやっていることなのに、どうしても手が動かない。

私だけ教壇に残され、みんなが「できないの~?!」とざわつき始めます。

業を煮やした先生が「もういいよ。普段やっていないとできないんだぞ。いつも丸めて入れてんのかー?家のお手伝いとかしないんだろー。」とか、ちょっと冗談めかして言い、私は席に戻ります。

みんなが笑う中、私はニヤニヤするしかない。

いや丸めたことなんてないし。
たたんでるし。
家の手伝いするし。
という思いの中。

悲しかったけど、悲しさを出してしまったらまたそれがクラス単位で問題になってしまう。
なんだどうした?となってしまう。
それはごめんだから、ただニヤニヤして、ほとぼりが冷めるのを待つ私。

当然先生からは「引っ込み思案」「自分では何もできない」「いつも人の影に隠れている」「お母さんは甘やかしすぎなのでは?」と評価され、通知表にも書かれるわけです。

今考えると、どうしようもなくアホですね。
結果的に自分が「できない子」レッテルを何重にも貼られていくことになるのに。
それぐらい分かっているだろうに。

このエピソードをはっきり覚えているということは、自分なりに精神的ショックが大きかったのかもしれない。
自分に対する評価を気にするが故の行動なのに、かえって自分の評価を下げまくってしまう、ままならない自分。

こんなことを思い出したから、どうってわけでもないのですが。
アホだったなあ、と思うしかないのですが。

大人になった今、子育てをする今、子供に触れる機会の多い今、
私は子供の世界を追体験しているわけです。

【まいぷれかまくらかるちゃー】第5回紅月劇団 石倉正英さん『舞台の音楽を生音にこだわるわけ』episode1

2016年には結成20周年を迎えられた紅月劇団の主宰者石倉正英さんのインタビュー。現在鎌倉で紅月劇団の舞台は古民家や古い喫茶店など制約のあるスペースでの公演を行っています。演じる方も見る方もそれぞれの立ち位置からしか感じ取れないものがある、正に借景劇です。

学生の頃に観劇した衝撃的な演劇との出会から、脚本家として作品を作りたいという奥底の思いが沸き上がってきました。今回は群馬県に居た頃のご家族のことや紅月劇団の結成について、そして演劇という芸術作品の終わりのない道を選んでゆくことになるまでのことを語っていただきました。

 

7/21・22『grotesuque~一休と地獄太夫~』(まいぷれかまくら)

紅月劇団ホームぺージ

【かまくら篆助のきたかま歳時記】第8回(コンロランepisode4)

【かまくら篆助のきたかま歳時記】Podcast版

今回の『かまくら篆助のきたかま歳時記』は世界中のかわいい雑貨が揃うコンロランさん特集の最終回。

コンロランの店主はどのように雑貨を探しているのでしょうか?世界中の雑貨との出会いの旅はどんな風に繰り広げられてゆくのでしょう。旅先の話や雑貨の見つけだし方などを聞いています。

かまくら篆助

まいぷれかまくらかまくら篆助ショップページ

【まいぷれかまくらかるちゃー】第4回(株)i-link-u 高野朋也さん(後編)

高野さんのつぶやいた「ぼくたちできちゃうかもね」は、いろいろな課題を乗り越え、正しいやり方ができているのではないかと、実感していることがよく感じられる言葉でした。

「分断された世の中では、異質なものは怖いもの近寄らないとなるが、ある程度の時間、空間、一緒に居た、学んだ経験が、多数派に気づきをもたらす」

様々な側面からも障害者の方たちとの関係を解き明かしてゆくアイリンクユーの取り組みをぜひお聴きください。

A・F・A(アクセンシブル・フィールド・アクティビティ)

株式会社i-link-u

【ひなたのこども】第9回 子育てと「ながらスマホ」。

子育てと「ながらスマホ」

東大合格者の多くは、親に言われなくても進んで机に向かうと言います。学習意欲の高い子にしたいと思ってもなかなか叶わない、その元凶の一つは「スマホ」だった?!そんな記事を読んで思ったこと。子供の話、スマホを置いてちゃんと聞いてますか?

子育てと「ながらスマホ」

http://president.jp/articles/-/23163

こんな記事を発見!

別に我が子は東大に入らなくても良いけど、(いや、入っても良いけど!)心の安定が学力にまで通じているとは、気が付かなかった!

というか、学力についてここまで考えることに気が付かなかった。

だけど今よくよく考えてみれば、当然な気もしてきました。

学力が高い子が出来上がるっていうのは、幼い頃から学習意欲が高かったということ。

学習意欲はどうやって湧き上がるのかというと、心が安定し自分のやりたいことに素直に取り組める環境にあった場合、子供特有の好奇心・探求心がのびのびと広がって、自ら知ろう、やってみようと思う・・・っていうこと、ですよね。

心の安定はどうやってでき上がるのかというと、家庭で親が「あなたを見ているよ」「大好きだよ」と態度で示し、子供が心から安心する場所を確保することで築くことができる。

勉強にしろ、自律心にしろ、社会に適応していく力にしろ、転んだとき起き上がる力にしろ・・・、基本は同じ原理で成り立っているのだろうな。

学校で「社会」(外の世界)を初めて学んでいる子供たち。

社会は、自分の本能的な欲望だけを通すことは通用しません。

他人の中で揉まれて「自分」が出来上がっていくけれど、その過程には自分を殺したり、理不尽さに耐えたりすることが必要になってくる。

幼い心に容赦なく試練は降ってくるわけです。

試練は辛いこともあるけれど、学校から帰って来て家庭で安心することができたら、つまり「自分は大丈夫なんだ」と思える場所が確保されていれば、子供は試練を糧に、社会で1人で立つ力を身につけてゆく、ということですね。

で、「ながらスマホ」です。

どこで見た情報かは忘れてしまいましたが、

「何を話してもスマホに没頭してスルーする母親を前に、幼い子供が
『ぼく、スマホに産まれたかった。』
とつぶやいた」

という話があります。

その無垢な感情が今後どこへ向かっていくのか・・・想像すると何とも切ない気持ちになります。

上は極端な例ですが、「そんなに私はスマホに依存してないし」と思っていても、子供との会話をついついスマホの画面を見ながらしてしまったこと、誰でも1度や2度はあるのではないでしょうか。

スマホを扱っている本人は、その画面の中に仕事や交友関係や趣味や生活の断片の世界を見ているのでしょうが、
それを外から見たら、ただの「手のひらサイズの金属の塊を持った人」です。

スマホは世界とつながっているけれど、今一番近くにいる人とはつながっていない。

そこを想像しながら扱わないと、スマホは人間を壊す。
大げさかもしれないけど、そんな恐怖を感じます。

さて、自分を振り返ってみる。

ながらスマホでぴよと話すこと、ある!ある!

私はスマホゲームもそんなにしないし、ラインも必要な連絡に使う程度だけど、それでも衝撃的なほど思い当ります。

例えば夕飯のレシピを検索して、今関係ないレシピまであれこれ保存することに熱中したり、
たまたま見たサイトのニュースの見出しが次々気になってネットサーフィンしてしまったり。
そういうのって、罪悪感ないから子供の前でもやっている。

ぴよたちの世代は産まれたときからスマホがあるから、スマホが生活の中に組み込まれていることには疑問も不満も感じないでしょう。

ただ、そこに付け入ってしまう大人のズルさ!

私もそうだ!

ながらスマホに限らず、「子供の話を聞く」ということの大切さ、深く刺さりました。

私は「ながらとん」も圧倒的に多いわけですが。
とんもぴよとの話に巻き混んで楽しむのが理想かもね。
理想と現実は噛み合わないこと多いけど。

まずは!
どんな場合でも、
ぴよが私に話しかけてくれた時は、ぴよの目線からの私の姿を想像しながら会話をしてみよう。